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「ビジネスモデル症候群」の誤謬 ー懐疑論に陥ってサイコロを振りつづけてはいけないー

ビジネスモデルの設計・構築を行うと新規事業は失敗するという「ビジネスモデル症候群」には、いくつかの誤謬がある。この記事では、ふたつのデメリットとして紹介されている。

  1. ビジネスモデルの設計が事業投資をシミュレーションに止まらせる
  2. ビジネスモデルの設計が収益源の選択肢を狭める

leanstartupjapan.co.jp

この批判は妥当なんだろうか。

まずひとつめの指摘について考えてみる。この記事では、「「新規事業開発」とは「連続して発生する想定外への決断と対応」と同意語」という表現がある。目の前で起こる想定外(の現象)に対して対処する中で、(経験的に)成功するのだという経験論的な立場に立っている。ひとことで言えば、「やってみなければわからない」というものだ。

私自身もその誤謬に陥ったこともある。これは半分は正しく、半分は間違っている。正しいというのは、やる前からダメだという判断は独断に陥るということだ。世の中には、タレブのいうブラックスワンのように、予想を裏切るような出来事が多々ある。これは正しい部分の半分だ。

間違っている半分はなにか。ただひたすらサイコロを振り続けて当たるのを待つようなことになる。「ビジネスモデル症候群」を主張する人たちは、「経験的にしか知りえない」という前提に立っているように見えるが、より正確には「経験的に知っていたとしても、次に起こることは予想し得ず、経験的にも知りえない」ということだ。経験論はこうした懐疑論にたどり着く。「お前がそう言っても、やってみなければわからない。シミュレーションは無意味だ」と。(馬鹿げている(笑))

この記事でも同じような主張が展開される。いわく、

確率的に大きな成果を得られるかも知れないという期待値に賭けているのであって、成功法則でも「合理的な」手法論でもない。「ブラック・スワンが出てきたら、捕まえろ!」その挑戦を自分が死なないようにしながら、手を突っ込みまくるのである。決して溺れ死んではいけない。それぐらいしか、僕達にできることはない。

blog.kasajei.com

ほんまかいな。

しかし、私達は起業の成功がサイコロによる偶然ではないことを知っている。シリアルアントレプレナーは、次々と事業を成功させていく。独断に陥ってはいけないが、しかし成功する起業家はなにかが違う。それは、現象をどのように認識するかという、認識の方法の違いにある。

起こった現象をどのように経験するのかというのは、感性と知性の領域である。同じ現象を目の前にしても、その経験は人によって異なる。ビジネスモデル(とビジネスモデル・キャンバスにおける9つのブロック)という概念(カテゴリー)をあらかじめ持っておくことで、世の中の見え方は変わる。成功を続ける起業家は、世界の見方が違うのだ。

たとえば、C Channelの森川さんがインタビューに次のように答えている。

──起業家の素養の2つ目、「事業力」については、どのように磨いてこられたのでしょうか?

これは勉強しかないですね。

具体的には、様々な会社やビジネスモデルを観察し、「その会社がなぜ成長したか」「成功/失敗するまでの過程においてどういう課題があったか」「最近伸びている事業はどう伸びていて、どう収益が上がっているか」等です。私はそういったことを、常に勉強しています。

forbesjapan.com

これなんか、リーンスタートアップの懐疑論に陥っている人からすれば、論外である。勉強なんて無意味であり、そんなこと言っているあいだにサイコロを振って確率論的に成功を探せということになる。まじかよ、である。

そもそも、本来のリーン・スタートアップはそういうものではない。Learnを重視する立場である。帰納法的に学んでいくものであって懐疑論ではない。Product Market Fitと呼ばれるニーズに合致した製品・サービスを探っていく方法論である。そのときに、製品・サービスの価値について、機能的価値、感性的価値、社会的価値といった概念(カテゴリー)を使って把握することは重要となる。

ビジネスモデル(とビジネスモデル・キャンバスにおける9つのブロック)は、世の中を認識するための概念なのだ。

カントは、対象によって触発されるための感性、そこから対象を認識する悟性、概念同士を関連付け世界を認識する理性の三つに分けて考えた。

ビジネスモデルは、シミュレーションモデルではない。そうではなく、起業を成功に導くための、対象を認知する悟性である。すべてを経験的にしか知りえないというリーンスタートアップ界隈に発生しがちな懐疑論に陥らないための、世界認識のための理性の形式のひとつなのである。