デザイン思考でも限界があり、イノベーションを起こすに十分ではない。この記事では2つの点が指摘されている。
1. 課題解決が価値につながらない場合
デザイン思考により課題解決をすることで人々の困りごとは解決され,生活はより便利になってはいるものの,それが本質的に価値となっているかどうかは議論の余地がある.
(中略)
2. 未知のものを生み出す場合
これは1点目とも関連するが,主に破壊的イノベーションの創出に関係する部分である.非連続の価値の創出の際には,デザイン思考がうまく活用できない可能性がある.
たとえば、クリステンセン教授のジョブ理論なども、このデザイン思考の限界を超えられていない。ジョブのないところでおこるイノベーションについては、説明ができないのである。
アート思考は、デザイン思考のこうした限界を補完をする。そうした結論にたどり着いた、個人的な思考の流れを書いてみようと思う。
知識を拡張するアブダクション
個人的に、「未知のものを生み出す」ということについて、いくつかのアプローチを試みてきた。ひとつはアブダクションである。
アブダクションとは、パースによって提示された、演繹法、帰納法にならぶ第三の思考法である。飛躍的推論を行うプロセスである。
このアブダクションの定式として言われているものがこちらである。
驚くべき事実Cが観察された。
しかしもしH(仮説)が真実なら、Cは当然のこととして起こりうる。
すなわち、Hが真実であることを疑う理由がある。
たとえば、陸地から魚の化石が出るという事実(驚くべき事実C)を観察し、もし陸地が昔、海だったとしたら(H)、Cは当然である。すなわち、ここは昔、海だったと推論することができる。こうして知識を拡張していくことを、アブダクションと呼んだ。
デザイン思考の源流は、パースなどによって創始されたプラグマティズムの思想にある。絶対的な真理はなく、常に書き換えられていく。その真理は、有用であるかどうかで判断されるというプラグマティズムの思想は、作りながら発見をしていくデザイン思考に色濃く影響を落としている。そのプラグマティズムの思想の中核にあるのが、アブダクションである。
この段階では、あくまでデザイン思考の源流をたどるだけであり、デザイン思考の枠を超えてはいない。
アブダクションによって物語を紡ぐインプロビゼーション
そのアブダクションによって物語を紡ぐのがインプロビゼーションである。一年ほどインプロのワークショップに通いながら、インプロの思考プロセスについて内省を行った。
まず、他者のアクション(インプロでは「オファー」と呼ぶ)が、驚くべき事実Cとして役者につきつけられる。そのCを妥当なものとするような仮説Hを探し出し、そのHを場にオファーする。常に、想定外のCに対するHを提示し続けるのがインプロである。
このプロセスを、アート思考の根幹に据えようと考えた。
芸術家の思考プロセスとして、まず世の中の常識と異なる(つまり認知的不協和のある)驚くべき事実Cを着想し、そのCが、しかしHという表現を取るのであれば、Hもありうるだろうと考える。そうして表現を拡張していったと見ることができる。
アートは、そうした驚くべき事実Cを、現実の世界の中で実現し、その結果、新しい認知を獲得していくプロセスと見ることができる。
それはYes, Andというコンセプトで表現される。驚くべき事実Cが提示されたとしてもそれをYesで受け入れ、Andで仮説Hを展開していく。そのことによってさまざまな発見を行ったことは、科学者のウーリ・アロンもTEDのプレゼンで紹介している。いわゆる「課題解決」ではない、「未知のものを生み出す」ような思考プロセスなのだという。
型によって即興を豊かにする
そうしてワークショップに参加していくなかで、しかし限界を感じるようになった。即興そのものに内在する問題だと思うのだが、対応がパターン化されていくのである。常に新しい即興を生み出す状態にいることは難しい。芸術家でも、自分の表現を見つけてしばらくは、その表現を繰り返しながら探索をしていく。
このパターン化は悪いことではなく、洗練というプロセスでもあるのだが、その洗練についてインプロのワークショップでは対応しづらい。こうすべきである、というような規範を押し付けるようなものになってしまい、インプロ本来の即興的な活動を阻害することになるのだ。インプロはつねに新しい展開を要請するため、洗練を組み込みにくいのである。
そこで学び始めたのが、能だ。ご縁があり、宝生流の佐野登先生に師事することになった。能は型がしっかりときまっている。決まっているからそこ自由自在になる。インプロのような「型にはまらない発想」をするには、実は型を身につけておく必要があり、型があるからこそ型破りができるのである。
即興と型のカント的統合
こうした取り組みをするなかで、改めて哲学的なアプローチでこうした流れを整理できないか考えた。型という理想を想定するのは、プラトンのような理性的アプローチであり、一方のその都度新しいものが現れ、状況が更新されていくのは、アリストテレス的な経験論的なアプローチともいえる。そのふたつが二律背反に対立するのではなく、統合されるべきものであるという立場をとったのがカントであった。
カントは物自体にふれることはできず、ひとはそこから触発された〈現象〉だけを経験できるとし、理性で議論できる限界を設定した。一方で、こうした経験は、経験に先立って認識の〈形式〉によって規定されるのだとして、経験する前の理性の重要性を指摘した。
型を学ぶことによって、インプロ的状況に置かれる前の認識の身体的〈形式〉を身につけておく。そしてそのうえで、想定もしていない状況に置かれて、そこで起こる〈現象〉を受け止めていくのである。
プラグマティズムによる展開
プラグマティズムは、カントのそうした議論を発展させ、〈形式〉はその有用性で評価され、さらに有用な〈形式〉へと漸進的に改められていくと考えた。パースは、〈現象〉を分類するにあたって、要素の質料による分類ではなく、要素の形式または構造による分類をすべきだと考えた。
すこし話は横にそれるが、私自身も関わっているビジネスモデル・キャンバスと呼ばれるビジネスモデル構造は、まさに要素の構造による分類である。現実のビジネスという〈現象〉における要素を、9つのブロックで分類することで、構造的に把握するのである。
当初、ビジネスモデル・オントロジーと呼ばれたやや複雑な構造だったものが、より有用性の高いシンプルなキャンバスへとプラグマティックな進化を遂げたビジネスモデル認識のアプローチだ。そして、プラグマティズムの出自を持つデザイン思考とも相性がいいのは、当然のことであろう。
プラグマティズムは、ダーウィンの進化論の影響を強く受けている。多数のプロトタイプを作って改善を繰り返していくデザイン思考は、こうした斬新的更新の側面を強く反映したものだ。一方で、アブダクションのような飛躍的発見の推論プロセスは、十分に組み込まれていない。
さきほどの型を例に取れば、これは型の洗練プロセスにはなりうるが、型破りのプロセスにはならない。型破りという言葉のニュアンスにあるのは、環境に対するすり合わせではなく、環境の制約条件を思いもよらない方法で突破するアプローチである。
驚くべき事実Cを提示するアートの役割
すでに見てきたように、アブダクションによる推論の出発点には、驚くべき事実Cがある。そのCを説明するための仮説Hを見つけ出そうとするのが、アブダクションである。デュシャン以降の現代アートは、まさに驚くべき事実Cの提示という役割を果たしてきた。デュシャンは『泉』という作品によって、芸術の定義そのものにゆさぶりをかけた。いわゆるデザイン思考では、ここまでの射程はない。
賛否両論を巻き起こすような驚くべき事実Cをどのように見つけ出すのか。チャンス・オペレーションという、偶然性を取り入れたのが、ジョン・ケージである。易を使った作曲や、五線紙についた汚れを曲に見立てたり、「4分33秒」などの作品では観客の反応という偶然も曲として取り込んでいった。こうした作曲態度は、偶然という〈現象〉に対する観客の認識の可能性を広げるものであった。つまり、驚くべき事実Cに対する、Hを見つけ出すよう観客に要請することにより、音楽の可能性を広げていったのである。
この段階で、アート思考とデザイン思考の役割について仮の境界線を引くとすると、驚くべき事実Cを提示して仮説Hを要請するのがアート思考であり、その仮説Hの有用性を問うのがデザイン思考ということになるかもしれない。
(と、とりあえずここまで)